1994年5月15日
私は昆布屋の若女将になりました。

この日が私の結婚記念日です。

この日の私は
今の私を全く想像できませんでした。

私の実家も
食品関係の会社を経営していましたが
私はあまり手伝うこともなく
要するにお嬢様育ちです。

ところがところが
嫁いだ小濱家は
働かざる者、食うべからず
をモットーにしているようなお家。

当時の浪花昆布は11月中旬から12月は
今から考えられないほどの大忙しでした!

夫も深夜24時を回ってからの帰宅
朝も7時前の出勤
超ブラックですよね。
(今ではちゃんと18時過ぎには
退社していますよ)

義母が営むお店は
12月31日19時まで営業していました。

しかも、昆布のお正月飾りを作ったり
お正月商品の準備をしたりで
お店を締めてからも
夜なべ仕事の日々でした。

そして、そして
12月はお店の休みなし。

実家では
12月28日はお正月準備のお餅つき
29、30、31日はお節料理作りと大掃除
ゆったりとお正月を迎えていました。

私の頭の中は、

大掃除はいつするの?
お節料理はいつ作るの?
鏡餅は?
雑煮用のお餅は?
お正月準備の買い物は?

疑問だらけでした。

初めての小濱家での年末年始。

私のお腹には7か月になる赤ちゃんが
しかも妊娠初期に流産の恐れがあるからと
入院を余儀なくすることに・・・。

退院後、担当医から安静を言い渡されるも
働きづめ義母を見ていた私は
どうしたらいいのか分からず・・・
小濱姓になったばかりでこの状況は、
ストレスも戸惑いも半端なかったです。

夫と話す時間もほとんどなく
慣れない環境で一人ぼっち。

悪気はないのは分かっていても、
婚家からの無言のプレッシャーを
感じる日々でした。

お腹が痛くなるたび
流産するんじゃないかと
とっても怖かったです。

辛くて結婚を後悔したことも
何度もありました。

なんで私がこんな目に・・・
どうして分かってくれないの・・・
涙ながらに訴えたことも
1度や2度じゃないです。

実家も会社を経営しているから
私は理解できると
思い込んでいました。

いや、私は大丈夫
立派な嫁、妻になれると
信じていました。

普通の夫婦でも
育った環境が違うと色々ありますよね。

その違いが私の中では想像以上。

悩んで苦しんでいたら
さらなる試練が、、、

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1995年1月17日
阪神淡路大震災

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夫の実家が避難指定区域になり、
義父母、2人の義妹が我が家へ
来ることになりました。

結婚のときに、
こだわって揃えた食器は割れ、
家具は傷つき、電化製品は壊れ・・・

結婚半年ちょっとで
大家族生活になりました。

すると
動き過ぎたせいか、
切迫早産で再入院。

自分のいない家で何が行われているのか、
気になって仕方ありませんでした。

義理の家族になって間もない人たちが
我が物顔で家を占領しているような
そんな被害妄想にも取りつかれていました。

今思い出しても泣きそうになってしまいます。

でも今なら、
なんだか懐かしい気がします。

まだまだ未熟だった当時の私に、

「あなたは大丈夫。
25年後のあなたは、
立派に昆布屋の
2代目女将をやってるよ。

と伝えに行きたい気持ちで
いっぱいになります。

こんなに未熟で世間知らずだった私が、

昆布の魅力に気付き、
昆布屋の女将として
夫と二人三脚で
家業を盛り立ていくことができた!

そんな昆布屋女将の奮闘記と、

知ってるようで知らない
昆布の魅力を、

全力でお伝えして参ります。

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小濱 洋子

yamatonadeshiko
株式会社浪花昆布 常務取締役

1994年株式会社浪花昆布の2代目小濱敬一と結婚。一男一女の母。
2002年株式会社浪花昆布入社、初代女将の営む佃真六甲本店で女将修行をスタート。
長女がフィギュアスケートを始めたため、仕事や家事、スケートの送り迎えにと目まぐるしい日々を送っていた。
娘のスケート引退を機に、本格的に社内業務に携わる。
ぐるぐる昆布カフェの企画、商品開発、開店準備を担う。
現在は、フランス輸出業務に力を入れている。